神苑大建設は、神慈秀明会における具体的な達成目標として、信徒の団結力や求心力の強化、活性化という意味で大きな役割を果たした。, 神苑境内は、鳥居にあたる神域門やみたらしなど、神社的な構造をしているが、建築物は日本的な雰囲気を残してはいるものの、有名な建築デザイナーによる洗練されたデザインと、当時の最先端技術を駆使した、現代的な建築が主である。, 神苑は、カリヨン塔の建設をもって完成とされた。 日本基督教団 小山教会は、栃木県小山市の日本キリスト教団の教会です。一般式場では味わえないキリスト教式の結婚式や、礼拝・グループ集会を行っております。当教会は特定非営利活動法人こひつじ園が運営をしております。 無宗教葬の飾付けや内容は、喪主や遺族の希望でどのような形を採用しても構いません。演出や装飾など、自由でオリジナルな葬儀を作り上げても問題ありません。とはいえ、無宗教葬は宗教者がいないだけで、死者を送り出すための式典であることに違いはありません。 今話題の小山でコロナクラスター発生させた!!の285番目の書き込みに今すぐレスポンス! 小山でコロナクラスター発生させた!!は爆サイ.com関東版の小山市雑談掲示板で話題沸騰中です。今すぐチェックをしよう! 1ページ目 小山市(栃木県)で宗教のお店を探すなら、gooタウンページ。住所や地図、業種、シチュエーションで絞り込んで、お店や会社の情報(電話、地図、口コミ、クーポンなど)を見つけることができます! 栃木県小山市の教会をご紹介。小山聖書キリスト教会や純福音小山教会などの住所や地図、電話番号や営業時間、サービス内容など詳細情報もご確認頂けます。地域やカテゴリを絞って検索も可能です。 小山市クラスター発生したけど 市のHPには何も情報は載ってないんだな怖すぎw 334 名無しさん 2020/07/20(月) 11:15:36.37 ID:c/3v1wDI 同教団は世界救世教から、昭和45年(1970年)3月1日に独立したことで生まれた。独立前の前身は、世界救世教の一所属団体であり、当時の世界救世教内で最大の教会であった世界救世教秀明教会(せかいきゅうせいきょうしゅうめいきょうかい)である。そのため、法人の登記上の設立日は1952年9月9日になっている。, 神慈秀明会の教祖は、世界救世教の教祖である岡田茂吉である。また、この教団の立教者(開祖)は、世界救世教秀明教会の会長であった小山美秀子である。小山美秀子は、神慈秀明会の立教をしたものの、自身は教祖とはならず、立教時にはすでに死去していた岡田茂吉を、神慈秀明会の教祖として立てた。, この教団は、世界救世教の分派教団の中では最大規模の団体であり、公称信者数は35万人とされている[1]。, 本部は、滋賀県甲賀市信楽町。山中に約30万坪以上の境内を有する。この境内のことを神苑(みその)と呼ぶ。神苑内にはミノル・ヤマサキの設計した、富士山型の礼拝堂ホール(教祖殿)と、イオ・ミン・ペイ(I.M.ペイ)の設計した三味線の撥の形のベルタワー(カリヨン塔)があり、秀逸な建築物として有名であり、興味も持たれるのだが、神苑敷地内は原則として信者のみが立ち入り可能であり、地域の住民や一般人が自由に見学できるようにはなっていない。また、神苑の近接地に「MIHO MUSEUM」という美術館を建設しており、こちらは一般人に教団所蔵の美術品を公開している。詳細は#建設の節、ならびに、MIHO MUSEUMの項目を参照。, 基本的な教義は、世界救世教のものを継承している。 Copyright THE MAINICHI NEWSPAPERS. 秀明紙勉強会、略称秀勉(しゅうべん)への月一回の参加が義務づけられている。, 飛天(ひてん)は、神慈秀明会が独立して間もない昭和46年に交通事故死した、秀明教会の教師、岡田三栄子の思い出集である。昭和48年初版発行。この人物は、当時の教団における有力信者であり、会主小山美秀子の右腕的存在であったため、特別に思い出集の発行が行われたが、この書物の中に、『神慈秀明会の誇り』と名付けられた講義録が掲載されている。後に、神慈秀明会の特徴的な教義『離脱の神意』が、同書の『神慈秀明会の誇り』の内容をもとに作られた。この書物は単なる思い出集ではなく、この宗教の信仰を学ぶ上で重要な教本として扱われている。, 命様ご講話集(みことさまごこうわしゅう)は、小山荘吉前会長の講話録。 「素晴らしき世界 新しい人生」というのが正式な題名。第3巻まである。, 第1巻は昭和51年4月10日初版発行。第1巻には「かもめのジョナサン」「M.コルベ神父」「世界人の条件」という講話が掲載されており、この本が神慈秀明会の布教に多大な影響を与えた。神慈秀明会内で、「かもめのジョナサンの本」という場合は、いわゆる小説のかもめのジョナサンを指すのではなく、この書籍のことを指す。, 第2巻は平成6年7月11日初版発行。「神苑大建設」と題され、神苑建設に関する講話がまとめられている。, 第3巻は平成7年11月23日初版発行。「行動する青年に」と題され、秀明カレッジで話された、青年信者に向けられた講話がまとめられている。, 観音行(かんのんぎょう)は、 教祖岡田茂吉が書いた教えで、聖教書には載っていないものを数十篇収めてある書籍。この書物は新体制になってから発行されたものであるが、聖教書からは排除されていた神慈秀明会の旧体制時代の過激な活動と矛盾した教えが書かれている。この教えは、教団教師でも初めて知る内容であり、この教えと、旧体制時代の活動との矛盾を、教団教師ですら満足に説明できない状態を生み出している。そのため、信者の信仰上の混乱や旧体制の活動への批判の再燃となる可能性を危惧し、末端信者への配布を慎重にしている。資格者、助教師、世話人といった役職の上位順に配布され、末端信者への配布は現時点では見合わされている。, 浄霊(じょうれい)は、神慈秀明会が行う、手かざしによる癒しを目的とした宗教儀式である。, 神慈秀明会の浄霊は3分から5分で終了する。浄霊は浄霊を行う者と、浄霊を受ける者とが向かい合わせになり行う。神慈秀明会では、浄霊を行う前、および、浄霊が終わったとき、浄霊を行った者と受けた者が、手を合わせ、声をそろえて、「明主様ありがとうございます」を3回唱えることが作法になっている。, 浄霊を受ける者は、浄霊の儀式の間、目をつぶり、浄霊を行う者の開始と終了などの合図に従う。浄霊を行う者は、まず、相手の額に手をかざす。2分ほど経過したら、相手に頭を下げてもらうように促し、2分間ほど脳天に手をかざす。これで浄霊の儀式は終了する。神慈秀明会では、この浄霊を行う事で、相手の魂が浄まり、奇跡が起こり、病気が治り、悩みから解決されるとしている。浄霊は、入信時に教団から授与されるお守り状のおひかりを首にかけることで行えることになっている。おひかりは、浄霊を行う際に必要なものであり、浄霊を受ける側には、おひかりは必ずしも必要ない。, 神慈秀明会の浄霊は、世界救世教が行う浄霊がもとであるが、世界救世教のものとは、その作法に差異がある。世界救世教の浄霊は、頭部だけではなく、胴体部分にも、前後左右より手をかざす。また、浄霊の時間も神慈秀明会の浄霊より長いが、神慈秀明会の浄霊は額と脳天のみに、正面だけから手をかざし、5分程度で終了する。離脱の神意の教義では、神慈秀明会の浄霊作法こそが正しく、世界救世教の浄霊作法は間違いであると説いている。, おひかりは、神慈秀明会への入信時に受け取る、絹の外袋に入ったおまもり状の信仰的アイテムである。信者はおひかりを首にかけることで浄霊を行うことが可能になる。, おひかりの中に入っている物は、教祖が書いたとされる「光」「光明」「大光明」の三種類の紙片のコピーである。入信時にうけとるものには「光」が入っており、希望者は教修を受けることで「光明」を得ることが出来、資格試験を合格し、教師の役職を得た物は「大光明」を得る。, より上位のおひかりの方が、浄霊の力が強いとされている。また、通常、浄霊は1対1で行うものだが「大光明」をかけたものは、集団浄霊と言われる、多人数への同時浄霊を行うことが出来るとされている。, おひかりの袋、および紐は絹製である。希望者は、教団によって定められた金製の鎖に限り、紐として使用することが許される。, おひかりを首に掛ける際は、おひかり本体が肌に触れるような、肌着の内側にかけなければならないとか、おひかりは定められた専用の釘や三方の上のみに安置することが許され、それ以外は許されないなど、神慈秀明会において、おひかりの取り扱いには、さまざまな規則や制限が存在する。, これらの取り扱い上の規則を破り、教団が定める粗相をおこなってしまうと、後述するお詫びまたはご焼却とよばれる状態になる。, お詫びとは、おひかりに教団が定めた粗相を働いたため、浄霊の力を失ってしまったおひかりに対し執り行う儀式を指す。その状態のおひかり、またはその信者の状態を指す言葉としても使われる。(用例:「私、今、おわびだから浄霊が出来ません」), おひかりは、粗末に扱うことで「おひかりにご無礼を働いた」とされる。この「ご無礼を働いた状態」のおひかりは、浄霊をする力が失われたとされ、「おわび」(または「お浄め」)といわれる儀式を行うまで、浄霊の力は復帰されないとされる。, おわび状態のおひかりは、神前でおわびの儀式を行い、その不始末を神に謝罪することで浄霊の力は復活するとされるが、神慈秀明会では、単におわびするだけでは許されず、さまざまな信仰的約束を行うことが求められる。信仰的約束とは、参拝の約束、入信者を作る、献金を行うなどである。, おわびの約束が信者と教団側とで折り合わない場合や、おわびの約束を実行してからでないとおわびの儀式を執り行わないと教団側が主張する場合なども多く存在し、なかなかおわびの儀式が行われない事も少なくない。, 行われた粗相がおわびに値するかどうかや、どのような約束を行うことでおわびの儀式を取り次ぐかなどの判断は、担当教師が行う。判断の際、おわびが繰り返されるごとに、要求する約束事を厳しくつり上げていくのが一般的である。また、先に信仰的な約束を果たさないと、おわびの儀式を行わないという判断をすることもある。, ご焼却とは、おひかりに教団が定めた、お詫びでは済まない粗相を働いたため、浄霊の力を永久に失ってしまったおひかりに対し執り行う焼却処理の儀式を指す。その状態のおひかり、またはその信者の状態を指す言葉としても使われる。, ご焼却という儀式は、おわびでは済まない粗相が行われたおひかりを本部宛に全国から集め、それを一括焼却する儀式である。, ご焼却の状態となったおひかりは、ご焼却の儀式を行う以外選択肢はなく、信者は、おひかりを再度受けるまで浄霊を行うことは出来ない。おひかりを受け取ることを拝受(はいじゅ)といい、ご焼却になったために再度受けることを再拝受(さいはいじゅ)というが、この再拝受が許可されるためにも、おわび以上に厳しい信仰的約束を求められることが多い。, 本節では、おひかりのお詫びとご焼却を解説したが、おひかり以外にも、神体や屏風観音など、教団から受けとる信仰的礼拝対象にも、おわびやご焼却の状態が存在する。これらのものがおわびになるもっとも多い理由は、虫の付着であろう。神体や屏風観音はおひかりよりも上位の信仰的アイテムなので、おひかり以上に厳しい信仰的約束が求められることが一般的である。, 神慈秀明会が滋賀県の山中に所有する、広さ30万坪以上の本部境内を神苑(みその)と呼ぶが、神慈秀明会は、この神苑内の建設を、多額の金銭と長い年月をかけて行った。これを神苑大建設(みそのだいけんせつ)と呼び、建設に信仰的な意義を設け、その資金となる献金を強く推奨していた。 小山市内の小学校に通う小学生。栃木県内感染確認第108例目である小山市在住 50代女性(記事)の長男。父親(121例目)妹(119例目)姉(122例目)の陽性確認。 県と宇都宮市は5日、計111人が新たに新型コロナウイルスに感染したと発表した。1日当たりの発表数としては最多で、初めて100人を突破した。同日までに宇都宮市内のパブで、従業員5人の陽性が判明し、県内20例目のクラスター(感染者集団)となった。 継承している基本的な教義とは、神道形式を踏襲した祭祀や礼拝の方法、教祖である岡田茂吉を、神と人の融合した姿・神人合一の存在として精神的支柱に据えている事、浄霊という手かざしの宗教儀式を行う事、教義上、美術、芸術鑑賞を重要視している事、自然農法という、教祖考案の農業を推奨する事などである。, だが現実的には、この教団は岡田茂吉教祖の記した教義のうち5%にも満たない量しか信者に公開しておらず[2]、教祖に関する資料なども他教団に比べ著しく乏しい。その結果、信者は教祖の経歴や評伝、思想や功績などをあまり知らない。, これらの事は、神慈秀明会が岡田茂吉を教祖としながらも、実際には岡田茂吉の影響が薄弱な教団であることを物語っている。そしてこの教団には、その特徴形成において教祖以上に多大な影響力を発揮した人物が別に存在する。それは、強力なカリスマ性と強い布教指導力を持った、教団開祖小山美秀子会主や、小山荘吉前会長らである。, 教団は会の創始者である小山美秀子を、神に選ばれた特別かつ絶対的な存在であるかのごとく事実上位置づけており、教団において小山美秀子の信仰的教導は、教祖の教義以上の影響力を有していた。しかし実際には、小山美秀子はキリスト教の影響を強く受けており、岡田茂吉教祖の教義とは大きく異なる信仰観の持ち主であった。また、小山荘吉前会長の信仰的教導をみると、教祖の教義への知識が著しく欠落していたのだろうと思われるものが散見される。, そのため、小山美秀子、小山荘吉らの宗教的教導を比較検証してみると、岡田茂吉教祖が説いた教義や思想と大きく矛盾していたり、正反対の教えも多かった。だが、前述の通り教義の大部分が非公開である上、離脱の神意の教義のため教祖の教えを有する世界救世教に近付くことが出来なかったため、神慈秀明会の信者らは、小山美秀子、小山荘吉たちの教導と教祖の教義とを比較検証するすべを持たず、教祖のあらゆる弟子たちの中で、唯一小山美秀子や小山荘吉だけが、教祖の教えを正しく説くことが出来るとする教団のふれこみをそのまま信じるしか無かった。, そんな、小山美秀子会主、小山荘吉前会長による強力な統率の元、急激な発展を遂げた同教団は、世界救世教からの独立後、時間がたつごとに徐々に教祖の影響が薄れてゆき、教団はいわば小山家流とも言えるような独自の方向に大きく塗り替えられ、教祖の影響が強い他の世界救世教系教団とは異質な教団に変化していった。詳細は#会主信仰の節を参照。, そして、小山家流の文化や思想に塗り替えられた神慈秀明会は、後に内外から多くの批判を浴びる旧体制と呼ばれる時代を生み出すことになる。, 旧体制とは、1970年の独立から1996年末までをさす。この時代に神慈秀明会は、会主、会長の強力なカリスマ性と布教指導力の元、教団に入信することで起こるようになるとされる奇跡、奇瑞を宣伝の要として、「あなたの健康と幸せをお祈りさせてください」という声かけや、路上や駅前での手かざし(浄霊)などで当時有名になった活発な布教活動を行うことで信者数を大幅に増やし、本部境内(神苑)や美術館等の大規模な建設も行い、その建設の資金源となる献金の積極的な推進などを信者らに行った。, この時期に同教団は大きな発展を遂げたが、活発が行きすぎて過激化、非常識化した布教活動や献金活動が、報道などには至らなかったが様々な社会問題を水面下でおこしていた。1996年末、秀明会某拠点における非常識な活動が、偶然にもある外部の有力者に漏れてしまう。これが当時竣工間近だったMIHO MUSEUMにとって重大な問題に発展してしまう。その問題解決のために二代目である現会長、小山弘子により、それまでの体制が急遽変更されることとなる。1997年からの新体制以降は、社会問題の原因になりがちだった、過激化した布教活動や献金活動などを制限、活動は全盛期に比べかなり沈静化した。, しかし、教団活動の沈静化にもかかわらず、この教団に対するネット上などでの批判はいまだに活発である。それは、多数の被害者を出したとされる旧体制に対して、会として責任の所在を明確にしておらず、正式な謝罪や補償などをしていないこと。教団は旧体制時代の存在を、反省すべきものとしてとらえるどころか無かったこととして黙殺しようとしていること。そのため、一部の個人や拠点においても旧体制の反省が無く、旧体制時代式の行動(外での浄霊実践やノルマ設定や強力な献金活動)をいまだに改めない者がおり、教団としてもそういうものに注意を促す体制が無いこと。さらには、教義の根本を覆すような旧体制時代に行われてきた教導が、教祖の教義と多数の矛盾を有している事などに対する説明責任を全く果たしていない。詳細は#旧体制から新体制への節を参照。, 神慈秀明会の教団施設建設において、住民からの反対運動が時々発生している。1995年の長野県松本市における最初の建設反対運動において、反対運動が功を奏し、建設阻止にいたったドキュメンタリーは、後に書籍として出版[3] され、神慈秀明会に限らないさまざまなカルト宗教の建設反対運動における参考書として活用されている。2005年に神奈川県横浜市青葉区に発生した施設建設反対運動[4] は教団の施設の建設阻止に成功したが、2006年に発生した神奈川県横浜市戸塚区内における横浜出張所の建設においては、住民の反対署名を5000名以上集めた建設反対運動[5] が行われるも、教団は建設を強行し、2007年に施設は完成した。2007年には、山口県周南市において、住民の反対署名を4000名以上集めた集会所建設反対運動が行われ、教団は建設を断念した。[6] 2008年、宮崎県宮崎市において、11000人もの署名を集めた集会所建設反対運動が行われたが、建設を実行に移し建物は完成した。[7] また2017年には三重県伊勢市に集会所建設を行おうとするが、周辺住民からの反対運動、周辺道路への幟の設置などにより、移転建設計画は白紙に戻った。, 2006年には、大阪国税局の税務調査を受け、相続税など計約16億円の申告漏れの指摘や、施設工事に絡んだ1億円の不正なお金の流れなどが、朝日新聞をはじめとして全国的に取り上げられたことより、教団創始者の一族である小山家が、信者の自己犠牲(#自己放棄)による献金から50億円近い個人資産を形成していたことが発覚し、新たな批判を受けている。詳細は、#報道の節を参照。, 教祖は世界救世教教祖の岡田茂吉。信者は「明主様(めいしゅさま)」と呼ぶ。神慈秀明会の信仰は「明主様信仰」と言われており、岡田は教祖であると同時に、信仰の対象でもある。, 教団創始者は小山美秀子。信者は「会主様(かいしゅさま)」と呼ぶ。世界救世教から独立を実行した開祖という立場であり教祖ではないが、神慈秀明会では事実上教祖以上の尊敬対象になっている。会主は会長よりも上位の役職であり、おそらく美秀子のためにだけ存在する役職である。彼女の死後、2代目会主には誰も就任していない。, 現会長(代表役員)は美秀子の長女である小山弘子。前会長の小山荘吉は美秀子の長男。荘吉が48歳の若さで急逝したため、会主の美秀子は急遽、布教、信仰経験のない弘子を会の代表に任命した。信者はかつて荘吉を「会長先生」と呼んでいたが、荘吉の没後は弘子を「会長先生」と呼び、荘吉については「命様(みことさま)」と呼ぶようになった。, 世話人とは、一定の信者を導く事でなれる。導いた信者をグループ化し、信仰的な世話をする。助教師は、複数の世話人を統括する。教師は複数の助教師を統括したり、参拝所の運営をしており、階層的な組織を構成する。教師の役職はすべて本部の職員で、一部の助教師も職員の者がいる。また、教師にも階位が3段階あり、支部長、拠点長などと呼ばれる。, 神慈秀明会ではおひかりと呼ばれるお守りを授かることで入信(にゅうしん)する。入信すると信者となり、第三講(新入信者会)と呼ばれる本部参拝によって本信者となる。入信していない人は未信者と呼ぶ。なお、くもり信者とは、退会した信者のことではなく、不熱心で活動に参加しない信者や、教団に批判的な姿勢をとる信者のことをさす名称である。, 信者は、青年部(未婚の若い男女)、学生部(中・高校生)、ジュニア部(幼児、小学生)、男子部(既婚の男性、または若くない男性)に所属する。青年部は、さらに大学生部と、成人部(大学生ではない若い男女)に分けられる。なお、既婚の女性が所属する部(婦人部など)は、なぜか存在せず、一般と呼ばれ、部としてはあつかわれなかった。, 信者数は、現在は公称44万となっている。また、参考までに、1970年の独立当時の信者数は、1万人強だったと言われている。, 参拝所は、本部以下、その規模により、支所、支部、出張所、集会所、グループ、と分類される。グループ以外は責任者として本部公認の教師が常駐し管理される。参拝所は、日本全国で、最大時100カ所を越えていた。, 上記が正式な住所だが、団体としては信楽町以下を「神苑2」という通称で表記している。国から認められている訳ではないが、郵便物などは一応届く。, なお、信者らが称する「本部」とは、滋賀県信楽町の神苑の事を指す。神慈秀明会の登記上および実務上の本部は、京都府京都市左京区鹿ケ谷下宮ノ前町20の神慈秀明会京都支部内にある。これは世界救世教から離脱を行った当時には現在の京都支部を本部として申請し、京都府知事から承認を得ているからである。, 黄島全域を所有しており、定期航路はない。貝殻をイメージした黄島神殿などの建物がある。, 札幌・東京・千葉・名古屋・滋賀・京都・奈良・豊中・神崎・玉手山・西宮・神戸・本山・姫路・福山・広島・高知・福岡・熊本, (但し、神戸・本山の2支部は神戸総合支部として同一建物内に存在する。また滋賀は守山研修所という本部の建物と合同の建物となっている), 旭川・青森・盛岡・仙台・秋田・日立・水戸・さいたま・八王子・横浜・さがみ・宇都宮・松本・新潟・富山・金沢・岐阜・静岡・浜松・豊橋・豊田・交野・日根野・須磨・岡山・米子・松江・呉・徳山・山口・高松・徳島・松山・小倉・長崎・宮崎, 山形・福島・足立・高崎・甲府・所沢・福井・三重・近江八幡・和歌山・鳥取・佐賀・鹿児島・沖縄, ※上記は本部直轄の拠点であるが、上記拠点に属する参拝、集会を行うセンターが存在する。, 岡田 茂吉(おかだ もきち、1882年12月23日 - 1955年2月10日)は、世界救世教の教祖であり、小山美秀子によって神慈秀明会の教祖に推戴された。, 小山 美秀子(こやま みほこ、1910年5月15日 - 2003年11月29日)は、神慈秀明会の創始者であり、初代会主。教祖ではない。「美秀子」という名は、岡田茂吉による改名である。, 1910年(明治43年)、大阪の河崎家において、孝造とツネの二女として生誕。1928年(昭和3年)に大阪府立清水谷高等女学校を卒業後、東京の自由学園(羽仁もと子学園長)高等部に進学、卒業。この時期、キリスト教を基盤とする羽仁の思想に共鳴し、キリスト教の信仰精神を培った。, 1935年(昭和10年)、小山晃吉と結婚。二男一女をもうけるが、長女・弘子の懐妊時において妊娠腎の診断を受け、これをきっかけに岡田の弟子である川上吉子より、岡田式神霊指圧療法の施術を受けた。翌1936年(昭和11年)3月23日、川上より講習を受け、同治療の治療師となる資格を得た。, その後、岡田の活動が治療から宗教に変化するに従い、美秀子の活動も治療師から布教師へと変化し、京都府京都市左京区鹿ヶ谷(現在の同会の京都支部)において世界救世教秀明教会の看板を掲げ、初代会長に就任した。, 世界救世教秀明教会は、はじめ小さな教会であったが、岡田の死後に信者数を飛躍的に伸ばし、当時の世界救世教内で最大の教会となった。その功績を買われ、世界救世教在籍時代は、男性中心の傾向を持つ世界救世教においては珍しく、常任理事、および布教部長という要職に就任した。美秀子が世界救世教本部の役員に就任するにあたり、世界救世教秀明教会の会長職を長男・荘吉に委譲した。, 神慈秀明会の独立後は、美秀子と荘吉の2本柱で教団を教導していた。昭和59年の荘吉の急逝により、信仰経験のなかった長女・弘子を2代会長に急遽任命するも、信仰的な教導は美秀子が一人で行っていた。, 2003年(平成15年)、老衰で死去。死去の5年ほど前まで、神慈秀明会の教導やMIHO MUSEUMに展示する美術品の購入などを行っていた。, 小山 荘吉(こやま そうきち、1936年4月8日 - 1984年7月11日)は、神慈秀明会の初代会長。「荘吉」という名は、岡田茂吉による改名である。, 昭和11年4月8日、小山晃吉と美秀子の長男として、兵庫県芦屋で生誕。同志社大学経済学部卒業後、カリフォルニア大学ロサンゼルス校経営学科に2年間留学。昭和42年12月、世界救世教秀明教会の2代会長に就任。神慈秀明会になってからは、信仰的な教導を行いながら、神苑建設の推進(#建設)をするなど、多忙な日々を送っていた。, 壮吉には二男二女を妻との間にもうけており、二男のうち、玉男については現会長(弘子)の高齢化に伴い、後継者として会の式典や広報紙に近年度々現れるようになった。また玉男の弟である昌英については、会の自然農法部長に就任し活動している。, 小山 弘子(こやま ひろこ、1940年 - )は、神慈秀明会の2代会長であり、現会長。小山美秀子、小山荘吉とは異なり、「弘子」という名は本名である。, 昭和59年に荘吉が死去するまでは、弘子は神慈秀明会の役員として名は連ねていたが、運営に深く関わっていたわけではなく、布教、信仰経験もない、平凡な一般人として生活をしていた。荘吉が死去し、美秀子によって2代会長に急遽任命されてからは、多忙な生活となった。主な実績は、MIHO MUSEUMの建設の推進と美術品収集。#インターフェイス活動への参加、そして、体制変更の実現である。, 小山 玉男(こやま たまお )は、前会長 荘吉の長男。長い間弘子のみで会の運営や式典を行っていたが、弘子の高齢に伴い玉男も式典や海外での活動に出向くようになった。教団内「玉男先生」とよばれている。, (*)「世界救世教」という名称は1950年(昭和25年)からだが、便宜上、このように解説している。, 礼拝対象は教祖岡田茂吉が書いたとされる「大光明」の文字を神体としたもの、および、教祖の写真である。主催神は「大光明(みろくおおみかみ)」である。また、岡田茂吉を「神人合一」の存在とし、教祖でありながら信仰の対象でもあるとする。教祖の神名は「おしえみおやぬしの神」である。 副次的な祭神として、みろく大黒天がある。智福寿の加護があるとされている。, 信者は、自宅にご神体を奉斎し、家と、その家がある地域の幸福を願う。先祖の慰霊として仏壇内に教祖岡田茂吉が描いたとされる「十一面千手観音像」の絵を奉斎することで先祖供養を行う[9]。信者は、礼拝時に、日本神道で一般的に使用されている天津祝詞(あまつのりと)や、教祖が観音経を元に制作した独自の祝詞である善言讃詞(ぜんげんさんじ)を唱える。, また毎年2月3日の節分、6月30日、12月31日の3日間は神道でも行われる「大祓い」を行う。その際には『神言(かみごと)』を唱える。これは神道で用いられる「大祓詞」の文言に極めて似ているが一部を教祖が変えており、一部が通常の大祓詞とは少し違っている。, この宗教は、祝詞を唱えるため、一応、神道に分類されるが、教義には仏教の観音が出てきたり、ユダヤ教やキリスト教のメシア思想があったりと、様々な宗教思想を複合している。信者は、入信時に「おひかり」と呼ばれる、絹の袋で作られたお守り状のものを受け取り、首にかける。おひかりの授与をもって入信と見なされる。おひかりの授与を無しに会に入会するような制度は存在しない。神慈秀明会の宗教儀式である浄霊は、このおひかりを首にかけていることで可能となる。, この教団の主な教えは、信者がこの教団の活動に参加することで、様々な不幸に対し、神の力による奇跡が起こり、幸福になるということを説くものである。精神面や人生観に関する教えを説く事は少なく、活動主体の団体である。この教団の目標は、「人類救済、地上天国建設」であったが、後述する体制の変更後は、「世界平和を祈る」というものにトーンダウンしている。, なお、この節で解説した、神慈秀明会が行う信仰の姿は、世界救世教のそれとほとんど同一である。, 教祖・岡田茂吉の教義には、信者に課すべき戒律は存在しない。むしろ岡田茂吉は、戒律がない宗教であることを重要な特徴として説いていた。だが神慈秀明会には、自主的に定めた戒律が存在する。それは、毎月1日に発行される会報である「秀明紙」を勉強するための1時間程度の勉強会、秀明紙勉強会(しゅうめいしべんきょうかい、略称:秀勉(しゅうべん))に、月に一回参加することであり、これが同教団唯一の戒律として定められている。なお、現在の神慈秀明会には会費制度が存在せず、同勉強会に参加することをもって会費のかわりとされている。, さらに神慈秀明会には、戒律とは別に、信者が守らなければいけないさまざまな制約事項が存在する。教団や信者らはこれらを戒律とは呼んでいないが、常識的な見地からみると、宗教的戒律と呼ぶにふさわしいほどの十分な厳しさをもった制約事項であると言える。, 神慈秀明会の信者が必ず所有するおひかりというお守り状の信仰的アイテムの取り扱いについて、神慈秀明会はさまざまなルールを設けている。これについては、おひかりの節を参照のこと。, 神慈秀明会には、離脱の神意の教義に基づいた禁止事項と、それを破ったときに科せられるペナルティが存在する。これについては、禁止事項とペナルティの節を参照のこと, また、神慈秀明会の#特徴である全体主義性や権威主義性の発揮による、信者に対する事実上の制限事項や禁止事項なども多数あり、これらのことから、神慈秀明会は、教祖・岡田茂吉の教えどおり戒律がない宗教であるとしながら、実際には多数の禁止事項や制限事項がある現状だという、ダブルスタンダードな状態を作り出している。, 芸術に触れることで、魂が清まり、人徳が向上するという教えに従い、教団は信者による芸術活動を積極的に推進している。華道、茶道、英会話、コーラスなどの文化教室を開催する。芸術活動の一環として、MIHO MUSEUMという美術館を建設し、所蔵の美術品を一般にも公開している。, 秀明太鼓という和太鼓の演奏グループを運営している。信者の中から有志を募り、和太鼓の奏者として育成する。秀明太鼓は、主に神慈秀明会が賛同、参画するさまざまな行事やイベントで、演奏活動を行う。技術レベルは非常に高く、日本のみならず、海外での演奏活動の実績も豊富である。, 教祖岡田茂吉が提唱した自然農法の理念に従って作られた、無農薬自然肥料の作物を、農家の信者が生産し、教団内で流通させている。また、農家ではない一般信者が、自然農法の農作業を手伝うことも、信仰上の奉仕活動および環境的な情操教育として推奨している。瀬戸内海の島のひとつである黄島に土地を所有しており、青少年育成のために、夏休みの期間、黄島の海岸を利用して、身体障害者や学生の信者を対象としたキャンプを行う。, 旧体制と呼ばれた過去の時代と、新体制と呼ばれている最近では、布教に対する姿勢が全く異なっている。, 最近の布教は、不自然な布教活動を廃し、受け身型の布教が主になっている。社会活動(#NGO活動、太鼓演奏、美術館など)を通じた教団の間接的宣伝や、信者の信仰姿勢に興味を持った人の自発的な入信などである。2008年現在、同教団に入会するには、教団信者による紹介による布教が原則となっている。, 過去の旧体制時代には、駅前・大学施設近辺などで「あなたの健康と幸せをお祈りさせて下さい」と、通行人に声をかけ、額に手をかざす宗教行為(浄霊)を行う街頭布教がたいへん積極的に行われていた。他にも旧体制時代の布教方法には、駅前で声をかけ、浄霊を行う駅前デモンストレーション(略称「駅デモ」)、大学のキャンパス内で浄霊を紹介する学内浄霊会、自宅を一軒一軒訪問して布教する戸別訪問などがあった。この団体では、宗教団体であるという事実や、神慈秀明会という名称を隠して布教するようなことは原則的に行わなかった。, 布教において宣伝をしていたことは、教団に入信することで多数発生するとされている奇跡、奇瑞現象や、建設中の建設物がいかに素晴らしい物であるかということ、そして、人類救済、地上天国建設などといった壮大な目標を実現する団体であるということであった。こういった積極的な布教は、最近では見受けることはほとんどない。同教団が現在、積極的な布教を行っていない理由は、1996年末に体制を一新し、教団の方針が変わったからである。詳細は後節、#旧体制から新体制へを参照のこと。, 神慈秀明会では、パンフレットのポスティングによる宣伝は、教義上の理由により、今も昔も行わない。, 神慈秀明会は、世界救世教からの独立以前である1960年から香港の布教を行っており、現在、香港には、布教所12箇所、約30000人の信者がいる。アメリカには、5箇所の布教所がある。台湾の台北に、3箇所の布教所がある。その他、小規模な布教所が、フランス、イギリス、フィリピン、カナダ、ドイツ、イタリア、ブラジルなどにある。, 以前の神慈秀明会は、活発な布教姿勢と旺盛な建設事業が特徴だったが、新体制に方針を一新した現在の神慈秀明会は、布教や建設よりも社会に貢献することに主眼を置いて活動を推進している。, 以下の記述は、体制の変更に関わらない、神慈秀明会のもつ普遍的な特徴である。新体制への方針変更前は、これらの特徴が非常に強く、変更後は、これがわずかに弱まった傾向がある。, 神慈秀明会から出版されている教学書。なお、これらの書物を読むことを拝読といい、拝読時には正座の姿勢を要求される。, 聖教書(せいきょうしょ)は教祖岡田茂吉が書いた論文調の教えの内、100篇を選抜して作られた神慈秀明会の聖典である。初版は昭和48年9月23日。入信後、「第三講」と呼ばれる本部参拝時に渡される。, 教祖は多筆多弁な人物であったため、彼の説いた教えは膨大にあるのだが、聖教書に掲載されている100篇の教えはそのうち5%にも満たない量にすぎない[2]。しかも聖典としてまとめるために、聖教書の記述には多数の改変が加えられている。また、教祖の基本的な思想と、神慈秀明会において実際に行われてきた過激とも言えるさまざまな活動との間には矛盾する点が多数あるが、聖教書からは、そういった教祖の思想との矛盾点が発覚しかねない教えが、選別から意図的に排除されている。, 信者は、この聖教書の100篇だけで教祖の教えの基本がすべて網羅され、それ以外の教えは読む必要が無いとすら信じているが、実際には神慈秀明会の活動上の都合に合わせて意図的に選別され、改変された聖典であるとする研究も存在する(本節の#参考外部リンクを参照のこと)。, 秀明紙(しゅうめいし)は、毎月月初に信者に向けて発行される新聞型の機関誌。信者は同機関誌を無料で渡される。教団の指針や、信者の体験発表、教祖の教えなどが掲載されている。信者は、同会報を勉強する1時間程度の勉強会、 また、先祖供養の方法である、仏壇に奉斎する屏風観音の書画。離脱の神意の物語においては、世界救世教はそれを廃止したとしている。その他、「大黒像の奉斎」「善言讃詞」などの救いの柱を、世界救世教は次々と変更、廃止し、人類救済の力を封印したと離脱の神意の物語は説いている。, そして、救いの柱で最も重要なものは「正しい信仰心」であり、世界救世教の教会の中で、それを唯一有していたのが、小山美秀子率いる世界救世教秀明教会のみであったとしている。, その、人類救済を行える最後の砦である秀明教会を滅ぼそうと、邪神はさまざまな陰謀策略を行った。その最大の策略は、教主の絶対権を剥奪し、象徴とする教規変更であった。小山美秀子は、その邪神の策略を見破り、1970年3月1日、世界救世教秀明教会は、世界救世教から離脱独立を行った。, しかし、離脱の神意の物語では、邪神に憑依された世界救世教は、右翼団体と手を組み、小山美秀子や小山荘吉の命を狙いながら、甘い言葉や暴力や虚言を巧みに用いて、秀明教会の信者が世界救世教に戻ってくるよう、籠絡を行ったとしている。, 当時、世界救世教と秀明教会との両方の話を公平に聞き、秀明教会の離脱に追従するか世界救世教に戻るかを判断しようと考えた秀明教会の信者は、ほとんど秀明教会を選ばず、世界救世教に行ってしまったということがあった。このことを秀明教会は、邪神が不思議な力を発揮し、秀明教会の信者を地獄(世界救世教のこと)に引き込んだのだと理解した。そのため秀明教会内では、世界救世教側の説明会には出ないように、また、世界救世教側の信者の話は一切聞かないようにという通達が行われた。大阪の玉手山支部は、大部分の信者が世界救世教側に行ってしまい、半分以下の人数になってしまったとする。また、大阪の十三支部や、奈良の生駒支部などは、支部ぐるみで世界救世教に戻ってしまったが、離脱の神意では、これを世界救世教側が支部長を金銭と地位で買収したものとしており、離脱の神意の物語では、その支部長を邪神にやられた裏切り者として名指しで批判している。, かような、秀明教会側にとって厳しい妨害がはびこる中、離脱後に信者らに起こる奇跡、奇瑞はめざましくなったとしており、神[13] は世界救世教側ではなく、秀明教会を人類救済の唯一の機関に選んだのだという確信をもった。, そして、妨害工作の中、法律的にほとんど不可能と思われていた、離脱独立の法的手続きの認証が、奇跡的に同年6月2日に降り[17]、秀明教会は奇跡の離脱、命がけの離脱を成就することが出来た。この奇跡的な認証こそが、世界救世教の数ある教会の中から、神[13] が秀明教会だけを唯一選んだとする認証であると信者らは信じている。, その後、世界救世教秀明教会は神慈秀明会と名称を変更し、世界救世教により廃止されていたとされている「教祖直筆の御神体」「屏風観音」「善言讃詞」「大黒天像奉斎」を、次々と教祖在世時と同様に復活[18] した。, その結果、奇跡の水や金粉銀粉の湧出現象など、世界救世教時代には発生しなかったような奇跡、奇瑞が起こるようになった。そのことをもって、離脱の神意では、神慈秀明会が世界救世教に代わって人類救済の唯一の機関となり、神[13] は小山美秀子の功績により、神慈秀明会だけに復活した証であると教えている。, それに引き替え、邪神の巣窟となった世界救世教は、次々と醜聞が新聞雑誌に掲載され、いまは世界救世教には奇跡も起こらず、信者らは全員地獄の生活をしている、と離脱の神意の物語は説いており、信者はそれを疑わず信じている。, 離脱の神意は、神慈秀明会の立教の根本を説く重要な教義であり、神慈秀明会の存在意義は離脱の神意の教義において説かれている。このことは、離脱の神意が、単なる過去の歴史の解説という程度の位置づけではなく、離脱の神意の否定が、神慈秀明会そのものの否定となってしまうほどの重要な位置づけとなっていることを意味する。, 同教義の骨子を端的に説明すると、「神慈秀明会は崇高で正しく、天国にいる教祖から導かれ選ばれた、唯一正当な後継教団である。それにくらべて、世界救世教は邪神(邪悪な神)に操られた、もっとも邪悪で嫌忌すべき存在であり、近寄ってはいけないものである」ということになる。, 上記2点を説いた離脱の神意が、神慈秀明会の立教における重要な教義である事実は、下記の2点が、神慈秀明会の信仰の根本に組み込まれていることを意味する。, 神慈秀明会では、「離脱の神意が分からないと、この信仰のことは本当にはわからない」、とし、同教義の重要性を強調していた。神慈秀明会は、ともすれば単なる特定宗教団体への悪口に取られがちな離脱の神意を、そういう低俗な物ではなく、もっと崇高で奥の深いものである、と信者に説明していた。ある支部の支部長は、離脱の神意を何度も学び、世界救世教に対する、腹の底からの怒りの感情が出てくれば、信仰は一人前になったと言える、と説いていた。『離脱の神意』の教義を劇にした離脱劇が、青年部信者により毎年講演された。, 離脱の神意の本質は、神慈秀明会の会主小山美秀子および前会長小山荘吉の功績に対する賛美と、世界救世教に対する憎悪をセットにして教義化したものである。離脱が行われて40年近く経った現在、すでに社会情勢も世界救世教の事情も全く変わっているのにもかかわらず、神慈秀明会は、同教義を通じて、1970年当時の事情を永遠の真理であるかのように学び、世界救世教に対する憎悪の心を現代まで伝え続けている。, 神慈秀明会が持つ、世界救世教に対する敵意や嫌忌の感情は、教団内に自然発生した文化や風潮ではなく、教団が教義という形で、組織的、系統的、計画的、意図的に、信者に教育をした結果である。, 神慈秀明会の教義と、世界救世教および分派教団との教義はほぼ同一であるが、教団内の文化、風潮などはまったく異なっている。神慈秀明会が、世界救世教とも、その他の一般的な宗教団体とも異なる、独特の文化を形成している原因が、この『離脱の神意』の教義にあると考えられている。, という、2系統の教義でなりたっていた。この2系統の教義は互いに矛盾しあっているため、教団の活動や、信者の行動、言行などが一貫性を欠いているという現象が発生している。, そして、神慈秀明会は、教祖の教義よりも、『離脱の神意』の教義のほうに、より強く影響を受けた教団であると言える。『離脱の神意』の教義は、神慈秀明会に、次のような特徴を形成している。, 神慈秀明会は、世界救世教を、人類に害をなす最も邪悪な存在とみなし、世界救世教のいかなる実績も完全に否定し、世界救世教との交流をいっさい拒絶する(この考え方は、前述のインターフェイスの活動と矛盾している)。離脱の神意の教義と、教祖の教義は矛盾しているのだが、その矛盾を感じさせないよう、教祖の教義のほうに手を加えることで、教義の整合性を保っている。教義の大部分を削除したり、教祖の文章に大幅な改変をほどこしている。また、離脱の神意の価値観を信仰の基準ととらえており、離脱の神意の価値観に準じた信仰姿勢を示す信者を「高い信仰」をもった者として評価する。反対に、離脱の神意の価値観に反する態度を示す信者を「信仰の分からない者」または「邪神にやられた者(邪神の邪気によって魂を曇らされ、正常な判断が出来なくなり、邪神によって思考をあやつられている者)」と認識する。離脱の神意に反する態度とは、世界救世教に好意的感情を持つ事、小山美秀子や小山荘吉、小山家の人物を批判する事、離脱の神意を批判し、神慈秀明会の正統性を批判する事などである。, 離脱の神意に従い、神慈秀明会では、信者に以下のように考えるようにと教育が行われ、実際に以下のような行動が行われてきた。信者は、世界救世教に関するもの(美術館などの施設、信者、出版物や品物。世界救世教が関わっているEM推進などの社会活動)を嫌忌、または恐怖する。信者は、世界救世教に関する品物、施設、人物は、すべて邪悪な気(邪気)が出ており、接触することで魂が穢れるとし、決して接触しようとしない。信者は、世界救世教には、神慈秀明会で起こるような奇跡は起こらず、世界救世教の信者は全員、不幸のどん底で地獄にいると信じている。離脱の神意の教義では、会主小山美秀子を、信者が神として崇められている教祖岡田茂吉が、天国からただ一人選んだ後継者的存在であるとしている。そのため、会主小山美秀子はいかなる過ちや間違った判断もするはずがなく、神に近い完璧な人間であると信じられている。その小山美秀子が率いる神慈秀明会であるので、この教団はいかなる過ちも犯さず、完璧であり、社会から愛され、永久に発展する宗教団体であると信じられている。, 離脱の神意の教義を説くとき、当時の世界救世教の幹部や、秀明教会の離脱についてこなかった信者の話をする際、その個人名を隠すどころか、名前を明らかにして説明し、しかも、信者には、教義の一環として、それらの氏名を記憶させる。当時の救世教幹部や、離脱についてこなかった人物の氏名は、神慈秀明会においては、重要な教義となっている。なお、神慈秀明会では、そういった離脱の神意の悪役とされる人物の名を、名字の呼び捨てで説明していた。これは、離脱の神意の舞台であった昭和の時代において、当時のマスコミなどが、被疑者や容疑者の名字を呼び捨てにして報道していたことに由来していると思われる。この影響で、神慈秀明会ではいまでも、「邪神にやられ、神慈秀明会に敵対するようになった」とされる信者に対し、たとえその人物が目上や恩人、元幹部であっても、信者らはその人物の名字を呼び捨てにするようになる。, もともと離脱の神意の教義は、世界救世教だけに向けられた憎悪と嫌忌の教義だったのだが、信者はこの教義の影響を強く受けており、世界救世教以外の存在にもこの感情を向けることがある。神慈秀明会は、他宗教(世界救世教)を非難することを教義の根本に据えているため、自分たちを攻撃してくる存在を「邪神にやられているもの」として非難し、対決姿勢をとるということが文化として定着している。このため、世界救世教と無関係でも、神慈秀明会に批判的な活動、報道、団体、個人、元信者は、世界救世教と同様、邪神に操られていると考え、憎悪と嫌忌の感情を向けたり、まれに暴力を駆使しても対決しようとしたり、接触すると邪気のため魂が穢れると考え、避けようとする(例:「神慈秀明会の公式ホームページ以外のインターネットからは邪気が出ているから、見ると魂が穢れる」)。, 世界救世教への憎悪の感情を全面に出している、神慈秀明会のこれらの態度は、本来、和を尊ぶべき宗教団体がとるべき態度として常識範囲を逸脱しているとし、他宗教や未信者から批判の的になっている。, 前述の#戒律の項で説明したとおり、本来、神慈秀明会には、教祖の教義に従い、信者に課すべき戒律はないはずなのだが、この離脱の神意という教義は、事実上いくつかの禁止事項を生み出していると言える。そして信者らは、その禁止事項を破ることでペナルテイを受けることがある。, これらの禁止事項を常習的に破り、退会処分にされたり、村八分や監視の対象になった信者が現れた場合、神慈秀明会は、その信者に接触しないように他の信者に指導する。これは、こういった信者は「邪神にやられた」と定義され、接触することで接触した他の信者も邪神にやられてしまう可能性があるからである。これは、離脱の神意の物語内で、離脱に際し、世界救世教と秀明教会と、両方の話を公平に聞き、離脱に追従するか世界救世教に戻るかを判断しようと考えた秀明教会の信者は、ほとんど秀明教会を選ばず、世界救世教に行ってしまったという話から来ており、離脱の神意の教義では、その理由を「邪神にやられたから」と説明している。, これらの禁止事項は、旧体制時代はどこの支部でもほぼ同様に守られていたが、 新体制になった近年では、拠点や教師により温度差がある。いまだに強く禁止しているところもあれば、鷹揚なところもある。ただし神慈秀明会自体はこれらの禁止事項を公には解除しておらず、世界救世教に触れた信者に対しおおらかな態度を取る拠点や教師がいたとしても、その行動や判断は公式的なものではなく、各拠点や各教師による個人的な采配であり、他の拠点や教師、教団本部には出来るだけ知られたくない行動となっている。, 前述の通り、神慈秀明会は、体制の変更にともない、教団の性質が大きく変わったが、この体制の変更は離脱の神意に関しても、間接的に多大な影響を与えた。, 旧体制時代、神慈秀明会の信者が、離脱の神意の真偽を確認する事を、自らの意志で積極的に行うことは不可能であった。なぜなら、これらの真偽を確認するには世界救世教の資料や信者に接触して調査する必要があるが、前述の通り、教団によって教育され植え付けられた世界救世教への恐怖心と嫌悪心があるため、それらのものに近寄ることが出来ないからである。, このため、旧体制時代においては、離脱の神意という教義の真偽を疑うものなど信者には見あたらず、また、仮に疑いの心が生まれたとしても、それを確認するすべがなかったため、離脱の神意は、神慈秀明会という情報が制限され閉じた世界の中のみにおいて完璧な教義に見え、盤石な存在意義を示していた。また、この完璧で盤石な離脱の神意というものが、信者らにとって、神慈秀明会という宗教の優位性、絶対性の裏付けとなっていた。, しかし、新体制になって採用された、インターフェイスなどの新教義の影響もあり、旧体制時代には絶対に考えられなかった世界救世教の信者との交流を図り、神慈秀明会で明かされていない教祖の教義を研究しようとする信者などがわずかながら現れてきた。, 一部の信者らが世界救世教に触れ、神慈秀明会で隠されていた教祖の教義などを知るに連れ、離脱の神意で学んできた事柄が真実ではないことや、知識不足や解釈の違いで別の取りようがあることなどを知る信者が徐々に増え、離脱の神意の盤石性が揺ぎ始めてきた。離脱の神意の信憑性が減ることは、信者らにとって、神慈秀明会という宗教の絶対性や優位性、そして教団の立教の正当性といった根本的なものまでが揺らいでいくということを意味する。, そして、インターネットの利用が一般的なものになるに連れ、そういったわずかな信者らによって、離脱の神意の教義の検証が、インターネットによる情報発信という形態で行われ始めてきた。数々の調査の結果離脱の神意の虚偽点や矛盾点などを発見し、それを研究、解説したホームページが数点登場した。その内容は離脱の神意という教義の致命的な矛盾点の指摘であり、教団の立教の根本を揺るがすような、教義上、信者らにとって深刻な内容であったため、これらのホームページは信者らに大きな衝撃を与え、話題になった。, 閲覧する信者側にとっても、インターネットによる情報は、世界救世教に触れることなく読む事が出来るため、離脱の神意の教義によって植え付けられていた世界救世教に対する恐怖心に邪魔されることなく情報を得ることが出来、離脱の神意の教義への反証という情報はインターネットを利用する信者間に一挙に広まった。, 現在、インターネットによる情報の流通により、インターネットを利用する多くの信者らには、神慈秀明会の立教の根本を説く離脱の神意という教義の大部分が真実ではないという考えが定着し、旧体制時代には存在していた、他の世界救世教系教団と比較した神慈秀明会の優位性、優秀性といったものは失われ、教団の立教の正当性にまで疑問がもたれている現状であるが、神慈秀明会自体は、現在でも旧体制と同様に、離脱の神意の教義を説き、インターネットで提示された離脱の神意の検証に対する反論などは、まるでそういった問題が存在していないかのように、まったく行われず、黙殺をしている。, 会主信仰という言葉は、神慈秀明会の中では使われてはいないが、解説の便宜上必要なので暫定的に使用している。, もともと世界救世教系教団の信仰は、主催神である大光明(みろくおおみかみ)と、教祖であり神人合一である岡田茂吉が主な信仰の対象であり、これら以外を信仰することは教義からはずれている。これは小山美秀子会主もそのように明言しているのだが、神慈秀明会においては、事実上、会主であり教団創始者である小山美秀子に対する信仰が行われている。このことが、神慈秀明会の内部事情を複雑にし、信者の思想や行動に矛盾が発生している原因となっている。, 小山美秀子は、世界救世教在籍中、教会長をしていた世界救世教秀明教会を、短期間で世界救世教内で最大級の教会に成長させ、その功績を買われて布教部長の要職についた経歴を有している。小山美秀子は真剣な信仰姿勢と強い布教指導力と、芸術を重要視する世界救世教において高い審美眼などを有していたことや、上流階級出身であり、上流階級社会との交流も厚かったことなどから、世界救世教においては希有な存在感を表しており、秀明教会の信者に対しては強力なカリスマ性を発揮していた。, なお、小山美秀子はキリスト教系の学校である自由学園の出身であり、ここでの学生生活においてキリスト教の影響を強く受けており、小山美秀子流のキリスト教観は神慈秀明会にも多大な影響を与えている。(ただし、小山美秀子流のキリスト教観に基づく信仰観と、教祖の教義には大きな差異がある。), 独立後の神慈秀明会では、そんな会主小山美秀子を、神[13] が神界から選んだ唯一の後継者であるとし、小山美秀子だけがこの神に対する正しい信仰のあり方を指導できる唯一の人物であるとしている。そして、小山美秀子の指導からはずれた信仰を行うと、たちまち邪神に憑依され、魂が汚れ、地獄に堕ちると信者に教えている(この思想は前述の離脱の神意から来ている)。, 表現を変えると、神慈秀明会の信者が信じているものは、教祖の教えそのものではなく、教祖の教えを唯一正しく取り次ぐことが出来るとする小山美秀子を信じているということも出来る。, そのため、小山美秀子の判断や指導が教祖の教義の記述と矛盾していたとしても、信者は小山美秀子の方が正しいと判断する。その延長として、直接的に小山美秀子の指導とは限らない神慈秀明会の活動方針や各拠点の活動方針が教祖の教義と矛盾していても、会主小山美秀子の名の下にその矛盾は許容され、受け入れられている。事実、神慈秀明会の活動や思想には、教祖の教義との矛盾点や問題点が多数発見されている。, 一例として、次のような事実がある。神慈秀明会で公開している教祖の教義は、わずか100篇程度、全体の5%以下しか信者に公開していない[2] のだが、その事実に対し、信者は会主小山美秀子がこれで十分であると選択した教えであるのだから、それ以上の教えを読む必要ないなどと理解し、むしろそれ以外の、神慈秀明会が信者に出していない教えを読むことは害にすらなる(邪神に憑依される。魂が汚れる。地獄に堕ちる。)という考えがひろく一般的になっている。このことは、神慈秀明会の常識として、教祖よりも小山美秀子の言動を重要視している証拠であるといえる。, ところが、小山美秀子自身は、神と信者との関係性について、次のように説いている。「今までの考えでいけば、私をその間(註:神と信者との間)の取り次ぎ者とみるかも知れない。しかしこれはたいへんな誤りです。何者も介しないのです[19]。, 小山美秀子の思想が、神と人との間には何者も介さないというものでありながら、現実問題として、神慈秀明会では、神慈秀明会という団体や、会主小山美秀子を介さないと、大光明(みろくおおみかみ)や岡田茂吉とつながることは出来ないと暗に説いている。その結果、神慈秀明会の信者は、会主が「何者も介さない」と言っているのだから自分たちの信仰には何者も介在していないはずであると信じながら、同時に神慈秀明会という団体や会主小山美秀子を介さないと信仰は出来ないとも信じている。また、それは事実上、会主小山美秀子に対する信仰になってしまっているということに気づいていない。だが多くの信者はこの矛盾に気づいておらず、この点が信者の言動や思想における様々な矛盾発生の原因になっている。, また、神慈秀明会における教祖の教義の学びとは、教祖の教えそのものを学ぶのではなく、教祖の教えを会主小山美秀子がどのように理解し、とらえたかということを学ぶことである。そのことを反映して、神慈秀明会では教祖の教義そのものを学ぶ機会が大変少なく、主な学びは会主小山美秀子の残した言葉に対する物が大部分である。事実、神慈秀明会の会報「秀明」には、教祖の論文や教えよりも、会主小山美秀子の言葉や考え、体験などのほうがはるかに多く掲載されている。その結果、神慈秀明会の信者は、岡田茂吉の信者であるとしながら、岡田茂吉の功績や歴史、思想に関する知識や理解が、他の世界救世教系教団の信者に比べ著しく乏しい。信者らは、教祖に関する知識がほとんど無いにもかかわらず、自らの教団を教祖の教えを引き継ぐ唯一の教団であると自負しなくてはいけない事も、この教団の信者が抱えている矛盾である。, 神慈秀明会が短期間で急激な発展を遂げたのは、強力なカリスマ性と布教指導力をもった小山美秀子会主の功績である。そんな小山美秀子の強大な影響のもと、教祖に関する知識や資料が乏しい神慈秀明会においては、年月とともに徐々に教祖の影響が薄れ、教祖の影響が強い他の世界救世教系教団とは異なる価値観や文化を有することとなり、いわば小山流とも言えるような独自の方向に大きく塗り替えられた教団となったのは、自然な成り行きとも言えるだろう。, なお、小山美秀子に対する信仰は、小山家(前会長小山荘吉、現会長小山弘子)に対する信仰につながっており、現在においては、現会長の小山弘子が小山美秀子に近い存在として特別視されている。, 教団は、長年の活動下において、信者への教育、教義の勉強会、建築物などを通じて、教祖本来の教義とは矛盾している、「会主小山美秀子、および小山家の神聖化」を、神慈秀明会の教義に織り込み、教祖の影響を弱め、会主小山美秀子や小山家の影響を強めてきた。以下はその実例である。, なお、この観音の絵画は、教団では教祖が描いた物と説明しているが、実際には、オリジナルの絵画を第三者が模写した、同教団制作のレプリカであったことが判明している。, 例外的に、本部がある滋賀県の県知事や県会議員などとは交流を持つ傾向がある。滋賀県知事当時の, 訴訟を好まない姿勢は、信者に対して、この教団は争いごととは無関係な平和な教団であるという姿勢を保ちたいからだと思われる。近年は、教団の方針による集会所などの建設の促進と、その建設に対する地域住民の反対運動の活発化により、建設遂行のための手段として、小さな訴訟を行うケースも現れてきている。ただしそういった訴訟も、積極的には信者に公にされることはなく、信者に対してこの教団は訴訟事とは無縁であるというように見せる姿勢は崩していない, ここで言う神とは、主催神の大光明(みろくおおみかみ)であるというよりも、教祖であり神人合一である岡田茂吉(信者は明主様と呼ぶ)のことを指す。, 旧体制という用語は神慈秀明会自身による命名とは言えないが、世間の慣例として、新体制の前は旧体制と呼ばれるのが一般的であること、また、本部勉強会などの公式の場でも幾度も使用されており、信者間の会話やネット上の記述でもその時代を旧体制と呼ぶことがすでにある程度定着した用語であるため、 本項でも便宜上使用している。, 神慈秀明会で教えられる離脱の神意の物語では、世界救世教の幹部や、離脱についていかなかった秀明教会の元支部長などが個人名を明らかにして悪役として登場し、それらの人物らの批判も大々的に行われているが、本項目の解説では個人名の記述は省略する。, https://ja.wikipedia.org/w/index.php?title=神慈秀明会&oldid=81032803, 第三講とも呼ばれる参拝であり、各拠点で入信した信者は、この新入信者会の参加をもって本信者と認められる。, 1949年(昭和24年)、宗教法人世界救世教の1所属法人(1教会)として、宗教法人世界救世教秀明教会が設立。(*), 1970年(昭和45年)、宗教法人世界救世教秀明教会が、宗教法人世界救世教との被包括関係を解除し離脱独立。神慈秀明会を立教。, 本支部出張所への「参拝」を行う。毎日参拝することも推奨されており、それを「日参(にっさん)」と呼ぶ。, 参拝所の清掃や事務などの手伝いをする「奉仕」を行う。神慈秀明会における奉仕は、単なるお手伝いではなく、魂が向上する信仰的な意味がある事とされている。, 信者は教団の活動を経済的に支援する「献金」を行う。一般社会における献金とは単なる寄付であり、それ以上の意味はないが、神慈秀明会における献金は、単なる寄付以上の、宗教的な意味合いを持つ。献金を行うことで、魂が向上し、奇跡が起こり、不幸が幸福に変わっていくとされている。, 品位や純粋さ、高潔さなどを重んじる会風である。ただしそれが行き過ぎ、潔癖主義、完璧至上主義的な面もみられる。, 信者の割合は女性が非常に多く、女性上位の教団である。教団幹部や役員も、女性の割合が非常に高く活動の中心も女性。, 優しさ、奥床しさ、清潔をモットーとしているが、実際には、特に役職を持った女性信者などに、ヒステリックで自分の主張を押しつける性格の者が多い。これは、旧体制の布教至上時代に、そういった性格の者ほど高い成績を上げていたためだと思われる。また、そういった性格の信者が教団のモットーをもとに自己の性格を反省するようなことはみられない。, 閉鎖的な教団である。本部境内(神苑)を主に信者のみの参拝と制限するなど、運営にさまざまな制限が多いことなどからも、教団の閉鎖的な性格がうかがえる。, 海外のマスコミの取材は好んで受け付けるが、日本のマスコミなどの取材はほとんど拒否する。, 潤沢な資産を持っており、超一流主義の教団である。建設などのさまざまなプロジェクトに超一流の結果を求め、そのためになら採算を度外視して惜しみなく多額の資金を投入する。 ただし単なるぜいたく趣味ではなく、高い芸術性と文化的な最先端性を結果に求め、社会から高い評価を受けることを期待する。, 訴訟による解決を好まず、会が自ら訴訟を起こすようなことはない。ただし、信者からの献金返還訴訟などで被告にされた場合は、訴訟費用に糸目を付けず、徹底的に戦う, 絹袋は汚れるので定期的に交換を行うが、交換時に、袋の中に体毛が入っている(ペットなどの動物の毛が入っている場合は、後述のご焼却状態と判断されることもある)。, お詫びのおひかりと同じ場所に、お詫びではないおひかりを安置した場合、そのおひかりも連鎖的におわび状態となってしまう。, 世界救世教や真光など、世界救世教系他教団の信者の浄霊を受けたり、それらの信者に浄霊を行った場合、おひかりがおわびになると判断される場合がある。, おひかりを首に掛けていない状態で、空を飛ばない虫がおひかりに接触する。空を飛ばない虫とは, それに比べ、世界救世教と神慈秀明会を比較し、神慈秀明会という団体や、会主小山美秀子、初代会長小山荘吉がいかにすばらしい存在か。, 神慈秀明会における、離脱の神意に基づいた、より高い信仰姿勢とは、すでに法人としては利害関係もなく無関係なはずの世界救世教を非難することである。これは、世界救世教への批判が、神慈秀明会の立教の意義、正統性、優秀性の確信につながるという密接な関係になっているためで、世界救世教への批判、非難という行為は、過去の一時的な感情ではなく、神慈秀明会の存在意義の再確認のため、現在においても常に必要不可欠な態度であり、信者のあるべき信仰姿勢となっている。神慈秀明会に入信するということは、世界救世教という宗教を非難、嫌忌することを義務づけられるということを意味し、これが出来ない信者は、, 神慈秀明会における、離脱の神意に基づいた、より高い信仰姿勢とは、離脱の神意の教義において活躍をし、多大な功績を残したとする、会主小山美秀子、前会長小山荘吉の功績と人間性を絶賛、賛美する事である。小山美秀子、小山荘吉、ひいては小山家の人物を絶賛賛美し、崇拝する姿勢は、神慈秀明会を信仰する上において、常識であり、理想形とみなされている。神慈秀明会に入信するということは、教団創始者の小山美秀子をはじめとする小山家に対し、無条件的な絶賛、賛美を行うことを義務づけられることを意味する。, 『離脱の神意』を基本とし、会主小山美秀子、前会長小山荘吉が作り上げた神慈秀明会独自の教義と文化, 神慈秀明会の職員は、世界救世教の聖地や美術館、信者、書物などに接触してはいけない。それを行った職員は、解雇や左遷など、懲罰の対象になる。, 神慈秀明会に入信するものは、それまでの宗教を退会する必要はないが、世界救世教、およびその系列教団(, 世界救世教やその系列教団(真光系諸教団も含む)の信者は、原則として神慈秀明会の参拝施設に参拝することは出来ない。ただし、彼らのかけているお守りをはずして参拝にくることは許される場合がある。, 山根二郎ほか著、護られた街編集委員会編 『護られた街―実録・カルトは防げる、撃退できる』 仏教カルト研究所、2002年。, 次の団体は、秀明という名称が共通である以外、神慈秀明会とは資本・人材を始め一切の関係を持たない。.